人生に丁寧に向き合う

ようやく言語化できたので忘れないうちに書いとくぅ〜〜

 

いまほど人生に丁寧に向き合い、行動しているときはなかったと思います。

いまここ、という概念(概念にはしたくないが便宜上)を、時間としての今、と、永遠の今、を混同してきたので、いまこの瞬間に取り組むという意識は、わたしの人生を細切れにしました。

わたしは、過去の失敗は過去に置いたまま、とりあえず今この瞬間に取り組もうとしてきました。

もちろんそれはある意味正しいと思います、時間という流れの中で人生をみた場合には、過去はもう終わったことなので、今とは関係ありません。瞬間瞬間、わたしたちは新しいのです。

でも、なぜだろう、過去の失敗は、消えるどころか体積して、今も負の遺産のように依然として存在するのです。

なぜ?いまこの瞬間瞬間を大事にしてきて、どうしてそのようになるのだろう??

それは、「いまこの瞬間を生きる」で意味する「いま」とは、永遠のいまのことだったから、かなと。

今に影響を与え続けている過去の失敗は、その意味においては今の失敗と変わりないのではないだろうか??

アジャシャンティさんが、著作の多くのページを割いて、「自分の人生に責任をもちなさい」と説いています。

自分の人生のどんな側面をも、それらを避けるためにスピリチュアリティを使ってはいけないと口酸っぱく言います。いかなる瞬間にも現れてくることに向き合うこと。それこそが人生の幻想に穴をあけて真理へと目覚める手段なのだと。

いつかの傷口でも、いま自分のからだや環境に表現されているならば、そのことにちゃんと向き合う。やっちまったことに向き合う。

「禅とは、自分と人生が一体になっていること。」お世話になっている和尚様が言いました。「どだい人生からは逃げられないのですよ。」

わたしは禅と出会って、初めて人生を丁寧に受け入れ、向き合うようになったと思います。いや、いままでもそうしてきたつもり!でも、そうじゃなかった。それとはちがってた。

きっと他の人は当たり前にやってきたことじゃないかという気がします。わたしは、ちょっと不適合チックなところがあって、全くそうは見えないそうですが、人生はとてもストレスフルでした。いつも逃げたい一心で生きてきたので、もう逃げの姿勢が染み付いていて自分でも気がついていなかったのかなと思います。スピリチュアルを、逃げに使ってきたと思います。

座禅をしていると、あらゆるものとの距離がまったくないことに気づくことがあります。そうすると、人生との距離もないのです。(驚くなかれ、わたしには自分と自分の人生の間に距離があったのだ!)

わたしは、何にも依らない全てであるのと同時に、人生そのものでもあるのだということが、わかってくるのです。(知らなかったのだよ!)

だから人生は、人生の面倒は、ちゃんと自分でみるしかやりようがない。どこにも逃げ道などないのです。わたしが人生そのものだから。

というわけで、遅ればせながら、やっと、全として、そして個として、人生を生きられるように、なり、始めた、というところです。わ〜お、おっそ!

 

独参のときの和尚様との対話

わたし「わたしの人生には、いくつかの問題があります。わたしはいま、そこから逃げずに、丁寧に対応しようとし、また、そうしています。そして、わたしの人生にはいくつかの喜びがあり、これも、丁寧に受け取り、対応しようとして、また、そうしています。

しかし、人生を俯瞰したときに、何があったって人生は同じことではないかと。問題も、素晴らしいことも、全体からは同じことだと。そう思うと、いったいこの人生はいつまで続くのか、この同じことをいつまでやらねばならないのかと、…飽きているかのような思いになることがある。

そのようなわたしが、悟りを得たいと思うことは、逃げではないのでしょうか。」

和尚様「逃げではないと思います。いや、そこからが禅でしょう。禅とは、人生を生きること、悟りとは、エゴが握りしめている全てを捨て去ることです。悟った自分も捨て去ること。そして生活に戻るのです。」

わたし「本当にわたしのこの場合、逃げではないのですね?」

和尚様「どだい人生からは逃げられないのです」

(うろ覚え)

https://www.instagram.com/p/BWXD-tFlXON/

Instagram