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ファクトとオピニオン、または言葉の限界について

新暦の新年明けたら、フェイスブックで見かける皆さんがそれぞれパワーアップしてて、すごいエネルギッシュなの。

で、フェイスブックを見ていてふと、これ全部オピニオン(見解)なんだなあと感慨深かった。本間先生は、ファクト(事実)を見なさいって言った。でもいま目の前に、滝の様にオピニオンが流れている。

ファクトを見るなんて、実際可能なんだろうか?現実認識になんらかのバイアスがかかっていたら、目が拾うファクトだって人によって変わってくるじゃないか?公園に自転車とおじいちゃんが居るのを見る。ボールも落ちているが、Aさんは認識し、Bさんは認識しない。AさんのファクトとBさんのファクトは既にちがう。

トランプ大統領が面白いこと言ってたよね!「ファクトなどない、オピニオンがあるだけだ」と。

わたしねえ思わず唸ってしまったよ。

ファクトって目の前にあるように見えて、実はそれぞれの人の中にあるのではなかろうか。それなら、それはオピニオンと何が違うのか?

目に見えないもの、例えば、神様とか宇宙とかワンネスとかなどは、ファクトなどなくて、それぞれのオピニオンのみでやりとりする概念ではないだろうかと思います。なので人の数だけ神や宇宙は存在するけれども、誰かのそれらを、それはいいねえ!と受け入れたら、共有するのでしょう。

特に見えない世界の話をしていると、あ、いますれ違ったなとか、あ、いま階層下りたなとか、また、そもそも言葉の解釈の齟齬がままあり、お互いの定義の確認から話を始めなければならないこともありませんか。また、どの階層の話をするか確認しながら話を進めるときがあって、めんどくさい(笑)。

人によっては現実はひとつなのでそういうときは単純なんだけど(スピリチュアルと現実を分ける視点ね。わたしたちは三次元に生きているのだからっていう視点。)、視点が次元間をまたいでいて、ベースが全体意識だったりすると、視点の確認が必要なの(笑)

言葉をどう使うか。

言葉って大事、わたしはとても大事にします。言葉を丁寧につむぎたい。でも、そもそも認識が違うのなら、どうしても言葉で伝えるのって限界がありますよね。

言葉はエネルギーの塊でさ、散漫に広がっていたエネルギーを、ぐーっと収縮して、矢の様にするどく投げることができる、とても大きな力を持っていますよね。そのかわり、散漫に広がっていたエネルギーの多様な色合いは取捨されて、全ては乗らないんだよね。もともと、限界のある道具なんだ。

この時代は、見えないものを語ることが増えたから、余計に、言葉での伝達が不確かなものになっているのではないかしらん。

実を言うと、わたしはね、伝わらなくて当たり前と思ってて、言いたいことが言いたいように伝わっているかどうかは気にしてないです。コメントもらっても、みんな自分独自の視点で受け取ってるのがわかる。ものすごいナナメウエのときもある。それで全然問題ないのね。モウマンタイ。それどころか、わたしの書いたもので、その人のなかに化学反応が起こったのなら、それはちょっとうれしいのね。。。

まーそんなことで、フェイスブックはいま様々な階層や次元、観念信念、多種多様なフィルター越しのオピニオンの交差点になっているね。とても交通は盛んになっていて、陽の気で満ちていて、ワシには強すぎる…(ラピュタのポムじいさん)

以上、マイオピニオンでした。

特に着地点などないまま終わるど〜