知らないスペースからこんにちは

人間の自然治癒力というのは、本当にすごいなあと思います。なんにもしていないのに、勝手に治っていく。最初はトイレから出てもしばらくつらかったんですけど、今は、最初に「ウグフ…!」とうめき声の出る瞬間をこらえたら、なかなかスムーズです。あと一息です。(え?聞きたくない?)

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ところで元旦明けて2日目、姪があっちを向いているスキに、さっとフェイスブックのタイムラインを見たんだけど、みんな、「2016年は激動だった」とおっしゃっていた。このブログを読んでくれているスーパー希有なみなさんはいかがだったでありましょうか。

実はわたしはそのあたりはよくわからず。しかし確かに、2016年でちょっとひとくぎりというか、満期になった感があるんである。

あっわたしうまいこと言った、満期、うむ。

時間は人がつくった概念なので、それに合わせて人の意識が動くというのは興味深い。だが本当になんとなくそんな感じがあるのは集合意識の成せる技かしらん。

で、今年は仕切り直しとか、いったんゼロに、とか、そういう感覚がある。これまでの続きでは最早ない、という感覚。

 

昨年、「知っている」っていう感覚が飽和した感じがあり、探求の終わりを意識したが、それでも、引き出しにぎゅうぎゅう詰めの「わたしそれ知ってる」をざら〜っと出して、空っぽにしよう、しなくてはと思った。それだけはわたしにとって、ひどく重要だという気がしている。

昨年末に、ふと思ったのだ、だいたい「知っている」なんて言っても、多面体の、ある一面から見ただけで、全体を知っているかのような気になっているばかりなのではないか。なにかのバイアスがかかって、知っていると思っていて実は知らない、わかってるよ、と言いながら本当にはわかっていないことばかりなのではないか。(でもわかっていると思っているのだ)この思いはわたしの中で急速に膨れ上がり、看過すべきでないこととして迫って来た。

 

整体師としては、話を聞きながら、体を見ながら分析している(←これに関しては結構葛藤が…いやここではよそう)。あと実は…あまり言いたくないが…、人の話をヘラヘラ聞いているようで、実はすごい見ている…いわゆるフォスフォラス体質というか、見ざるを得ないだけなのだが…人の顔色がサッと変わるのを見逃さないし、ものすごくよくわかってしまうのサ…。相手の快不快、あ、このひとはプライドが高いから言い方に気をつけようとか、今このひとは納得してないからもう一度話をふろうとか、ああ、今褒め言葉が欲しいのだな、同意が欲しいのだな、などなど…←これもいまふと気がついたんだけど、最近はすごく緩和されている気がする。ろくすっぽ人に会ってないからだけかもしれんが…

また、相手がどの次元から物事を見て話しているか(それぞれ居る次元がちがうと、同じ話をしていてもかみ合うことがない。そういうフラストレーションを持ったことないですか)というのはとても気をつけて見ている。

何が言いたいかというと、これらは「本当には」聞いていないということではないか、ということだ。

相手が話しはじめると、自分のフィルターに通しながら、相手への対応を選択し始めている。これはもうほぼ無意識にやっている。

人、物事、情報に対して万事こんな調子で、一体対象の何を聞いていると言えるのだろう?

本当に聞く、とは、分析をかけないでそのまま全身全霊で聞くということではあるまいか。そうして、本当に知る、とは、そのような態度でもたらされるありのままの受容ではあるまいか。

そして、本当に聞く、本当に見る、本当に知るには、「知らない」という無垢のスペースに居なければおおよそ可能とは言えないのでは、と思うのだ。

これはそうたやすくはない。誰もが自分の経験則でしか人の話を聞けないし、理解できない。そのようにしか知らないのだから。

どうしたら、少しでも「本当に聞く」「本当に見る」ということができるだろうかと思いを巡らせてみたが、たぶんこれしかない。相手を、神と思うことだ。

インラケチ、自分が神なら相手も神だ。わたしたちが分たれているというのは幻想だと少し意識するのだ。神はもうひとりの自分の口を使って何かを言わんとしている。それを聞くのだ、信頼と尊敬をもって。

見るのも同様だ。自分のすがたを見るだけだ。

いかがだろう、新年早々壮大でかっこいいじゃないか!

ウフ!

で、冒頭の話、いや切れてる話じゃなくて、今年の、仕切り直し、いったんゼロから、という雰囲気とマッチしていて、実はそういうふうに、「それ知ってる」を手放して「本当に」見、聞き、知って行く、というかっこいいことに、取り組みやすい年なのではないか?というふうに、かこつけたいんである、マル。