何もない人生だからこそ

新春からキレ痔のヨシダです、あけましておめでとうございます!容赦なく襲いかかる便意!けんか売ってんのか!(誰に怒っていいのかわからないので若干キレ気味です、キレ痔だけに)

非二元風に言うなら…わたしがキレ痔はなったのではなく…ただ起こったのだ…キレ痔という体験が起こったのだ…

それはともかく、我々が普段「私」と言っているものは、体験と記憶と信念観念を指すわけじゃないですか。

で、それを取り上げられると「私」が心もとなくなるので、ま〜これを手放せる人はそういないですよ。キレ痔は取り上げてくれていいですけどね。

苦労したからこそとか、乗り越えて来たからこそとか、そういうのがアイデンティティになって、自信になったり売りになったりするわけですよね。

それはそれでいいです、素晴らしいです。わたしなんか、幼少からのほほんと苦労知らずに大きくなって、大学も出させてもらって、結婚もしてなければ子どももいなくて、「何もない人生でしたね」って言われたことがあります。

苦労こそ価値、みたいなね、産んだからこそわかる、とかね、しょうがないじゃん、親は愛情注いでくれたしなんだか産めない体だし。

いわゆる「人生経験が豊富」だとなんだかその人はすごい、っていう世の中ですからね、そうすっとわたしなんかもう用なしですよ、アメブロの略歴んとこに書くことないだろうな、健康で、ちょっこし不適合気味なだけでさ。

なんて書いたけど当然わたしは苦労もせずぬくぬく大きくなれたことに心から満足しています、たぶん私には苦労はできなかった、それに耐えられる自分とは思えません。わたしの友人にも人生のびっくり箱みたいな人いますけど、それを殊更武勇伝ぶることもなく、いつもユーモアを失わず、とても尊敬してます。

(わかってもらえると思うがここで言うなにもない人生とは、分離と個別と比較と善し悪しと主観に基づいたものだ)

乗り越えた障害も勝ち得たトロフィーも特にこれといった自覚がない人生で、だからこそ、体験と記憶と信念観念の塊としての「私」を、比較的容易に手放せる、というようなことが、あってもいいような気がする。

…まあ実際は、強烈な劣等感から超ド級に肥大したエゴとの戦いは苦戦続きだったが(笑)。(そのような我が闘争は非凡さや特別感をスピリチュアルな体験に求めていたようなスピ幼年期の終わりまで続いたのであった。)

いいかげんもう自分が何者であるという証明を、自分に対して行う必要は微塵も感じないし(いわんや他人をや)、しがみつくような栄光もなければ特別な能力もない。こんなわたしだからこそアドヴァイタに誘(いざな)われるのかもしれない。

命が我々を生きているという認識の中では、誰もがどういう人間であるかに関わりなく、等しく無条件の愛の発現なのだ、という、ここまで悟れなくても、限りなく寄り添っていることができればと思うわたしです。

また話が肥大化したよね。キレ痔の話じゃなかったっけ…?

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