今年わたしを一番解放した言葉、つづき

わたしは、治療に関わる手技、概念、あらゆる層の体の知識を得ることへの飽くなき渇望があり、習おう、習おうと思ってしまう、習っても他の人へ還元しない自分への失望があった(人への無関心故に)けれども開き直って、おお、そうか、わたしは、習うことこそが情熱なのだ、知識を得たいというパッションを満たさねばならんのだ、体のことを識ることそのものが、身の内から溢れ出る喜びなのだなと。アウトプットしようがしまいが、一生習い続けると思ってます。

さて、「人が嫌いよね」を受け入れたあと、もう一段階、なんてこった、ということがありました。

嫌いを自覚をしてすぐ、整体もキネシオロジーも、やめようと思いました。とにかく人と至近距離なものはもう離れようと(笑)。と、同時に、ふと、ある案件が心に浮かび……

その案件はあまりにハードルが高くて、生半可な気持ちでは関われないし、片手間ではもちろん無理。まだ持て余しているのだけど、とにかくまったく、今までやってきたこととは関係がない。人の癒し、体の探求と、全く関係のないことなのでした。

そのときふと、仮にもし、その案件に踏み出すとしたなら、もう、あのセミナーこの講座と、知りたい知りたいと駆り立てられて行かなくていいんだな…と思った瞬間、

ものすごくホッとして、本当に深いリラックスと安心を得てしまった。

わたし、ビックリしてしまって、割とすぐにその感覚は霧散してしまったんですけど、

いやちょっとまって!習うことは、わたしの魂の喜びです!それ手放して、なんでリラックスと安心なわけ!?

…結局ね、自分の中に、「施術者ならば勉強せねばダメ」、「今の自分ではまだ足りない」という観念が、魂の喜びと称した情熱の影にひっついていて、知識体得への渇望の一助となってたんだろうなと。

それだけなら、自分にがっかり、で終わるんだけど、ただ、その、ホッと、と、リラックス、と、安心、は、最初の一撃みたいなもので、それを包んでる下敷きみたいなものがあってですね、

それは言葉にすると、「わたしはオッケー」って感じ。「なにもしなくても」「揺るぎない」「わたしは大丈夫」「大きな肯定感」…なんかこう、深いところのオッケー、だから安心、みたいな…

その後その感覚が忘れられずなんども反芻するのだけど、守られている感じ、十全な感じ、満たされている感じ、くつろいでいる感じ…それらの全部、という感じ…

本当に、何もしなくっても、あれもこれもできなくっても、存在自体が、ものすごい肯定の中にあって守られているんだ…って。

自己肯定ってこういうことかああああああああああうわああああああ……

 

自分としては、アウトプットのないインプットを、自分に認めることも充分自己肯定だったんですよ。なのにそれを手放したと想像したときの圧倒的な肯定感はなんなのだ!?

無論、駆り立てられていいんですよ、情熱的に、何かをゲットしに行っていい、でも、「ゲットしてもいいししなくてもいいし、どちらにしてもわたしは完璧に大丈夫」というポイントがあって、ある方向へ行くときのスタート地点は、そこでありたいなと。

わたしは多分、スタート地点がマイナスからだったと今はわかります。いやもちろん、マイナスでもいいのね、マイナスからでしか体験できないことがある、強制的にマイナス発進させられてる人も居る。人生折り返して来て、わたしはこれからは、圧倒的センターにくつろぎながら、あれも、これも、って情熱を持って楽しんでいきたいなって思ったんです。

【まとめ】

真に、無条件に、この自分がOKなのだということを思い出すには、なにしろ手放して、手放して、手放して行くことが近道なような気がしました。(手放さなくてももちろんいいのだけど。)わたしは「これがわたしの幸せなのよ〜」というのも一旦手放すことで、なんにも残ってない自分が全然オッケーだったことを体験し、「人が嫌い」に始まるワークはとてもいい解放のワークになりましたとさ!

う〜ん伝えるのって難しい!ここまで読んでくれる人いるのかなあ…もちょっと続きがありまして…

「人が嫌い」も、「これこそが喜び」も、偏りがなくなってしまったので、実はいま施術の仕事が増えて来てるし、もっとやろう、楽しいから!って思っているし、習いたいことは少し減りましたがやっぱり知識を得る楽しみはそのままです。おもしろいね!

読んでくださってありがとうございました!

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写真はイメージです(笑)かわいいでしょ??なんて素敵なアトリエ…って思えませんか!?(笑)